2019年1月より放送予定のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では、田畑政治と共に主役として描かれる金栗四三。
日本における「マラソンの父」とも呼ばれ、ドラマでは中村勘九郎さんが演じる「金栗四三」とはいったいどのような人だったのでしょうか?
また、金栗四三さんのお顔、勘九郎さんにちょっと似てますよね!
顔のかたちとかそっくり!!
金栗 四三(かなくり しそう)
※名前の読み方は文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と様々です。
熊本県和水町社会教育課では、
「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。それぞれの呼び方で親しんでいただければ」
とされています。
大河ドラマのホームページの紹介には、「かなくり しそう」となっているので、このブログではそれに合わせています。
1891年(明治24年)8月20日に熊本県玉名郡春富村(現・和水町)で生まれた金栗さんは、
1911年(明治44年)「オリンピック」という言葉も知らないままストックホルムオリンピックのマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録を出して優勝します。
しかも、その時に金栗さんが履いていたのはなんと「足袋」!!
金栗さんが履いていた足袋は、その後、改良に改良を重ね「金栗足袋」「マラソン足袋」などと呼ばれるようになりました。
さらに改良を重ねて、日本のマラソンシューズ第一号となる「カナグリシューズ」にまで発展しました。
1912年(明治45年)金栗さんは、短距離の三島弥彦さんと共に日本人初のオリンピック選手となり、ストックホルムオリンピックに出場しました。
しかし、レース途中で日射病により意識を失って倒れてしまい、近くの農家で介抱されます。
この時のマラソンは、異常気象のため最高気温40℃という記録的な暑さで参加者68名中およそ半分が途中棄権しています。中にはレース中に倒れて、翌日死亡した選手もいたという過酷なものでした。
このストックホルムオリンピックには後日談があって、金栗さんの「棄権」の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、記録上は「競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。
そして、55年後の1967年(昭和42年)オリンピック委員会は、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に金栗さんを招待して、記念式典でゴールさせることにしました。
75歳の金栗さんは競技場をゆっくりと走って、用意されたゴールテープを切りました。
この時の「54年8か月6日5時間32分20秒3」という記録は、マラソン史上最も遅い記録として今も残っています。
ゴール後、金栗さんは
「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」
とユーモアあふれるスピーチをされています。
また、2012年には金栗さんのひ孫がストックホルムを訪れ、金栗さんを介抱してくれたスウェーデン人家族の子孫に感謝の意を伝えています。
ストックホルムオリンピックの後、金栗さんは、4年後の再起を誓い練習に励みますが、1916年(大正5年)のベルリンオリンピックが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となっていします。
その後、
1920年(大正9年)のアントワープオリンピック16位
1924年(大正13年)のパリオリンピック途中棄権
合計三度のオリンピックに出場しました。
その他の金栗さんの功績としましては、
1920年(大正9年)に、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催されていますが、金栗さんはこの大会開催のために尽力されており、現在でも、箱根駅伝最優秀選手には「金栗四三杯」が贈られています。
また、今では当たり前となっている高地トレーニングを日本に導入した先駆者とのことです。
その後、熊本県初代教育委員長を務めあげ、1983年(昭和58年)11月13日に92歳で亡くなられました。
金栗四三さんが残した有名な言葉として「体力、気力、努力」があります。
金栗さんが陸上人生の中で、常に大切にしていたことなのでしょうね。
このように金栗四三さんの人生をまとめてみると、大河ドラマの主役にふさわしい素晴らしいエピソードに富んだ人生を歩まれた方だったということがわかります。
2019年の大河ドラマでは、脚本家の宮藤官九郎さんがどのように描いていくのか。
今から楽しみでなりません。