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吉本せいの生涯!夫や家系図は?わろてんかモデルは吉本興業創業者!

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こんにちは。今日は吉本せいさんをご紹介します。

※吉本せい(藤岡てん)役のヒロインが決定!
→葵わかなプロフィール!演技力は?

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)が、吉田智子さん脚本の
『わろてんか』に決定したことが発表されました。

現在放送中の『べっぴんさん』、
次回作『ひよっこ』に続く97作目の朝ドラで、
ヒロインは吉本興業創業者の
『吉本せい』さんがモデルなんです。

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名前:吉本せい(本名:吉本勢)
生年月日:1889年12月5日
没年月日:1950年3月14日(享年60)
出身地:兵庫県明石市
職業:芸能プロモーター(吉本興業創業者)

 

吉本せいさんは、兵庫県明石市で
太物商(ふとものしょう=綿や麻の織物商)を
商っていた林豊次郎・ちよ夫婦の娘に生まれました。

男6人女6人の大家族の次女です。
両親はせいさんが幼い頃に大阪へ移り、
米屋を開いて繁盛しますが、
その陰にはせいさんの存在があったとか。

 

店番をしていた彼女は、少女ながら升で量った米に、

「これ、おまけね」

と小さい手でちょっぴり米をつかんで入れて、
その愛くるしい姿におかみさんたちも大喜び。

「おおきに。また買いにくるで」

と、ニコニコ顔で帰っていったと言います。

抜群の成績で小学校を卒業したせいさんは、
北浜で「金づくりの名人」と言われた
米穀仲買人の島徳蔵方に女中奉公すると、
持ち前の愛嬌と機転の良さで徳蔵に気に入られ、
炊事・洗濯・裁縫から、おけいこごとまでやらせてもらう特別待遇を受けます。

それが他の女中仲間にねたまれる原因となり、
いじめを受けるようになりましたが、
それよう柳の風と受け流し、それに感心した徳蔵は、

「この子は商いができる」

と見抜き、商法のコツを教え込みました。

今に続く吉本興業の根っこに部分には、
ここで学んだことが生かされているのかもしれません。

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1910年、両親の勧めで、大阪上町本町橋の
荒物問屋「箸吉(はしよし)」の息子・吉本吉兵衛(通称:吉本泰三)と結婚します。
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「箸吉は評判の老舗(しにせ)や。泰三も真面目な働きもんやそうや」

と父からは聞かされていたそうですが、
実際は違い、典型的なボンボンで、
ひいきの芸人に入れ揚げて金を浪費したそうです。

また自分でも芝居や剣舞に凝って、
商売をほったらかしにして舞台に上がり、
地方巡業にまで加わって家をあけることもたびたびあったそうです。

「私の初仕事は借金取りへのいいわけです」

と、せいさんは語っています。

どんなに家業に精を出すよう
口をすっぱくして頼んでも、
夫は聞く耳を持たず、夫婦げんかも日常茶飯事の新婚生活だったそうです。

しかし夫が家業を怠けた結果、
借金地獄にあえぐことになります。
夫婦げんかに疲れはてたせいさんは、
請求書の束をかかえながら、

「あんさん。そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤ(興行する建物)を持ちまへんか」

と、涙声で言いました。

せいさんの必死の訴えが
夫の胸に響いたのでしょうか、

それがきっかけとなり、
1912年、夫婦で天満八軒の一つ
「第二文芸館」を入手して、寄席経営をはじめました。

天満八軒と言うのは、
昔、飲食店や土産物屋が立ち並ぶ
8軒の寄席が集まったことから、
大阪の人々はそう呼んでいたそうです。
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経営をはじめたものの、
出演してくれる名のある芸人は
一人もいなかったそうです。

 

そこで、せいさんは夫と付き合いのあった
芸人仲間のコネを頼り、無名の人たちを集めました。
無名の芸人たちは、
コヤでやれるだけで感激し、大熱演を演じました。

更に、入場料を、
一般的なコヤの3割程度にします。

その成果もあって寄席は大盛況。

「こらおもろい。あんな芸、初めて見た」

と大評判になり、無名の芸人たちからは
全国的に活躍する芸人が育っていきました。

 

まだ現在の吉本興業ではありませんが、
芸人を育てて全国に送り出す姿には、
今に通ずるものが見て取れますね。

 

その後、1913年に吉本興行部(後の吉本興業)設立し、
1948年に吉本興業合名会社(1932年に設立)から
吉本興業株式会社に改組して、会長に就任しました。

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吉本せいはどんな家系?

実は、戸籍上、夫・泰三との間に
8人(女6人男2人)の子をもうけています。

しかし、5人までもが早世。

期待をかけ、成長したたった一人の男児、
次男・吉本穎右(えいすけ)も病弱気味でした。

吉本御曹司の穎右は、
戦後にブギの女王と呼ばれ一世を風靡する、
当時、大阪歌劇団(OSK)で活躍していた
笠置シヅ子と大恋愛をします。

しかし、吉本せいは、溺愛する息子の恋愛を許しませんでした。

既に、笠置シヅ子が穎右の子を身ごもっていたのですが、
結婚を許されぬまま、穎右は昭和22年5月、24歳で病死してしまいます。

妊娠中だった笠置シヅ子は、やがて女児を得て未婚の母となるが、
父の顔を知らないこの女児に、父の名前を取って、エイ子と名付けました。

ですので、せいさんには、亀井エイ子という孫が1人いることになります。

 

今では、私たちにこんなに
笑いを提供してくれている吉本興業!

その創業者である吉本せいさん。

かなりパワフルな生涯だったようですが、
わろてんかがどんなドラマになるのか、
今から楽しみです。

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